2010年1月30日土曜日

アウシュビッツ強制収容所

★アウシュビッツへの行き方★

アウシュビッツ行きのバスはクラクフ駅の旧市街とは反対側の大きなバスステーションから1、2時間に1本くらいでてます。片道10 Zl(≒300円)
あたしは10時のバスに乗って11時半頃向こうに着き、14時半発のバスで帰ってきました。
アウシュビッツからクラクフ行きのバスの時刻表は、往路のバスを降りたところにあります。



アウシュビッツに到着したあたしは、まず第二アウシュビッツと呼ばれるビルケナウ収容所へと歩いていった。(アウシュビッツ収容所から約3km。無料送迎バスあり)


ビルケナウ収容所はその敷地の広大さ(約175ヘクタール≒53万坪)と、収容者を運んでくるための鉄道が収容所内まで直接つながっていることで有名である。





1944年時点の点呼では男女合わせて10万人の囚人がいたそうだ。


女性囚人が収容されていたレンガ造りのバラックには3段ベッドが所狭しと置かれていた。


腐った藁が敷かれたベッドには、1人が足をまげてやっと寝られるくらいのスペースに、2・3人が寝かされていたらしい。





バラック内にあったトイレ↓



この収容所には水がなく、ネズミの大量発生による環境悪化が深刻であった。

ナチスはいずれ殆どの虐殺設備をビルケナウ収容所に設置、4棟の焼却炉・ガス室、野外焼却所で沢山の命が失われた。




あたしはこれらを見ても、想像ができなかった。

当時の囚人たちの暮らしは、想像できる範囲をゆうに超えていた。


どれだけ辛かったんだろうか。

彼らの辛さなんて、何不自由なく暮らしている今のあたしにわかるはずがない。


ただ、手を合わせて彼らの冥福を祈ることしかできなかった。












ビルケナウ収容所からアウシュビッツ収容所へ向かった。



アウシュビッツ収容所は、1940年にポーランド人政治犯を収容するために設立された。

当初はポーランド人虐殺の場として利用する予定であったが、時間が経つとともにナチスは全ヨーロッパ人、おもにそれぞれの国籍を持ったユダヤ人、そしてジプシーとソ連軍の捕虜をここに送り始めた。

中には、2400キロも離れた所から運ばれてきた人もいた。

多くは密閉された貨車で身動きひとつできないほど押し込まれ、食糧なしで運ばれた。



ここが収容所に選ばれた理由は、街の人口密集地から離れた所にあって、増設そして隔離が十分可能であったこと、また交通の便が良かったことがあげられる。



収容所は設立当時は14棟の1階建て、そして6棟の2階建ての計20棟であったが、囚人の労働力を使って1階建ては全て2階建てに改築され、新しく8棟が増築された。



1942年には28000人の囚人が収容されていたが、平均収容人数は約15000人であった。





収容所の正門には「ARBEIT MACHT FREI働けば自由になる」という皮肉なプレートがかかげられている。


プレートの「B」の文字が上下さかさまになっているのは、囚人のせめてもの反抗であったと言われている。



あたしがここに来る1週間ほど前にこのプレートが何者かに盗まれたというニュースが流れていたが、幸い戻ってきたようだ。





収容された人々は監禁され、飢え、重労働、医学実験、死刑執行の手段で虐殺されていった。


死を宣告されたユダヤ人のほとんどはここに到着してすぐにガス室に送られ、ファイルに登録されることなく殺されていった。

そのため、収容所で殺された人の数をつきとめるのは困難となっている。

研究者によれば、不完全である資料から約150万人の人々が殺害されたという。





ガス室の模型では、シャワーを浴びせるとナチスに騙され歩かされた人々の様子がみられた。

ガス室の天井には、水がでたことのないシャワーが取り付けられていた。

約636坪のガス室に2000人が押し込まれ、ナチスによってチクロンBが投入された。


彼らは20分以内に窒息死した。

その後は死体から金歯が抜かれ、髪の毛が切られ、指輪とピアスがとられた。



ギリシアやハンガリーのユダヤ人たちはナチスに騙され、ナチスから存在しない農場や土地、商店などを購入し、また収容所に着いた人々は自分の財産の最も価値あるものを持参していた。







ある一室にあしを踏み入れた瞬間、鳥肌がたった。

両脇のガラス一面に死者の髪の毛が展示してあったのだ。

その量が尋常じゃなくて、改めて死者の多さを実感した。


アウシュビッツ収容所が開放されたとき、ソ連軍は倉庫に袋詰めされた約7トンの髪の毛を発見したらしい。
それらは本来ならドイツ軍によって本国にあった工場に送られ、マットレスなどに加工される予定だった。


また他の部屋には、死者からとられた義足や靴、眼鏡、トランク、櫛が壁一面に展示してあった。




囚人たちは逮捕内容と収容所へ連行された理由によって、色別の三角ワッペンで識別されていた。囚人の大半は政治犯を示す赤色ワッペンをつけていた。

縞模様の囚人服は生地が薄く、寒さから囚人を守ることはできなかった。

下着は何週間ごとに、または何カ月ごとにしか着替えをもらえなかったため、チフスやカイセンなどの伝染病が流行していた。



囚人の1日の食事量は1300~1700キロカロリーにすぎず、朝食に500CCのコーヒーと呼ばれた液体、昼食には1リットルの水のような腐った野菜で作られたスープ、夕食に黒パンとマーガリン、薬草のような飲み物しかもらえなかった。




双子の子供たちは積極的に医学実験の材料にされた。

心臓へフェノール注射をして殺害されたケースもある。





収容所内には病院があったが、それは衰弱した者や回復する見込みのない者を選別してガス室に送ったり心臓にフェノール注射をするにすぎず、囚人の間では「焼却炉への玄関」呼ばれていたそうだ。






第10ブロックと11ブロックの間は両側から高い壁で区切られていた。10ブロックの窓に付けてある木の板は、そこで行われていた死刑執行を見られないための措置だった。



「死の壁」の前では約数千人の囚人が銃殺された。





絞首台↓
1947年にはアウシュビッツ元所長ルドルフ・ヘスの死刑執行も行われた。




ガス室↓







全てを見終わって、あたしは茫然としていた。

かつてここで数え切れないくらいの命が奪われたという事実が、あまりにも自分と離れた世界のように感じた。

胸を締め付ける悲しい感情だけがあたしのリアルだった。





広島の原爆資料館や沖縄のひめゆりの塔に行った時の方が、自分の中ではリアリティがあった。

胸に押し寄せてくる感情がもっと大きかった。

それはやはりあたしが「日本人」だからなんだろうか。


アウシュビッツでは展示されている写真は外国人、手紙や資料の文章は全て読めない。

だから、自分と離れた世界のように感じてしまうのだろうか。




わからない。






また、あたしは全ての展示を見終えてヒットラーがどんな人物だったのか知りたいと思った。

なぜこ彼はれだけの人命を奪って平然としていられたんだろうか。

間違いなく精神異常者だったんだろうけど、どんな風に異常だったんだろう?



日本に帰ったら本を読もう。

勉強したいことがまた一つ増えた。

(アウシュビッツ収容所、ビルケナウ収容所ともに入場料free。日本語のガイドブック4Zl≒120円 ←アウシュビッツに詳しくなければ購入をオススメします。今回の文章もガイドブックを参照させていただきました。)






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